完成後の毛利新田

1890年      試しに稲の苗を植えてみる。収穫できた。

1891年 10月28日 濃尾(のうび)大地震

         新田の堤防がつぶれ、澪止めも壊れてしまい、新田は浸水(しんすい=水びたしになること)した。

         必死に堤防を直し、すくない被害(ひがい)におさえた。

1892年      田んぼの面積が昨年の64%も増え、順調に稲作がすすめられた。

         毛利新田へ引っ越してくる家も増えた。

      9月  4日 大暴風雨におそわれる 

         昨年修復(しゅうふく)をした堤防がふたたびこわされ、津波(つなみ)によって海水がどんどん新田に入ってき

         た。約130もの家を押し流した。

         3年間こつこつ積み上げてきた成果が水の泡になってしまった。

 

大暴風雨による被害について毛利祥久は、災害の大きさ、人の命がうばわれてしまったこと、昨年の堤防の修理などでお金がないことなどを考え、堤防を作り直す計画をあきらめた。

 

小作人(田んぼで働く人たち=百姓)も、とても大変な思いをしたため、毛利新田にとどまる人はほとんどいなかった。住む人がいなくなり新田を管理できないことや、波によって肥料も流されていくことから、毛利新田はどんどん荒れ果てていってしまった。