神野新田って?

神野新田とは、明治時代に干拓(かんたく)によってできた、豊橋市の西がわに広がる新田である。1,100町歩(約11㎢=東京ディズニーランド約23こ分)の面積であり、これだけ大きなものはめずらしい。干拓とは、海に堤防を作り、その堤防の中に残る水を抜いて、土地をつくることである。つまり、新田づくりとは、じょうぶなていぼうをつくることである。

 

愛知県の職員であった岩本賞寿(いわもとしょうじゅ)は、牟呂(むろ)・磯辺を調査したとき、開墾(かいこん=池や沼、海を耕地にすること)すればよい田んぼになると考えた。そこから毛利祥久(もうりよしひさ)に新田開発の話が伝わり、祥久によって1888年より工事が進められた。そして、1890年に毛利新田が完成した。

  

 

 

しかし、なんども堤防(ていぼう)がこわれてしまったため、あきらめてしまい、1893年に神野金之助(かみのきんのすけ)が新田を買い取った。そして、新たに新田開発がすすめられた。

神野新田があるところはどんな土地?

神野新田がある土地は、水の運搬(うんぱん=川から水が流れてくるとき、同時に砂を運んでくること)によって土が積もった土地である。そのため、栄養があまりなくやせた土地だといえる。そのため、よい田んぼとするためにはひりょうが必要であった。

 

また、もともと海岸であるため、田んぼになったとしても海水に含まれた塩分(えんぶん)が残る。塩分が含まれた土地で稲作をしても、枯(か)れてしまうため、米はあまりとれない。これを、塩害(えんがい)という。そのため、淡水(たんすい=川など、塩分をふくまない水)でうすめないといけなかった。

 

このような土地であることは、地元の人たちはもちろん知っており、稲を植えることができるのか、うたがっていた。また、毛利新田時代の被害(ひがい)も心配されていた。そのため、近くに住む人が新たに神野新田で農業をしようと引っ越してくることは少なく、神野金之助たちは、神野新田で農業をすすめるために、いろんなところから人を募集(ぼしゅう)した。

 

神野新田は上記のように、土がよくなく、また、塩分によって土が固まってしまうこともあったため、ほせ(小枝)で土に穴をあけて植えたこともあるという。それでも塩害で枯れてしまうため、予備の苗を植えたようだ。

誰が神野新田を作ったの?

はじめに現在の神野新田をつくろうとしたのは、毛利祥久(もうりよしひさ)。毛利新田として完成はしたが、決壊(けっかい=詳しくはこちら)してしまい、荒れてしまった土地を、神野金之助(かみのきんのすけ)が買って、新田づくりに挑戦することになった。

 

神野金之助は、服部長七(はっとりちょうしち)に工事をおねがいした。また、堤防の工事は波が一気に流れてくるところがあるから短期間で行わなければいけなかった。そのため、牟呂(むろ)、磯辺、大崎(おおさき)、老津(おいつ)さらには田原や蒲郡(がまごおり)などから人を集め、作業をした。一日最低2000人、平均で5000人もの人が働いていたという。

毛利祥久(もうりよしひさ) 神野金之助(かみのきんのすけ) 服部長七(はっとりちょうしち)