とれるお米をふやすために

用水路(ようすいろ)をつくる

神野新田はもともと海なので、田んぼになったとしても海水に含まれた塩分(えんぶん)が残る。塩分が含まれた土地でお米を育てても、枯(か)れてしまうため、米はあまりとれない。これを、塩害(えんがい)という。そのため、川など、塩分をふくまない水(たんすい=淡水)でうすめる必要がある。淡水を田に入れられるようにするために、用水路(ようすいろ=くわしくはこちら)をつくらないといけなかった。

 

このような土地であることは、地元の人たちはもちろん知っており、稲を植えることができるのか、うたがっていた。また、毛利新田時代の被害(ひがい)も心配されていた。そのため、近くに住む人が新たに神野新田で農業をしようと引っ越してくることは少なく、神野金之助たちは、神野新田で農業をすすめるために、いろんなところから人を集めた。

 

肥料の工夫

土地の栄養(えいよう)は、年々へっていく。ましてや海を田んぼにした神野新田は、栄養があるはずもない。しかし、最初は知識がなく、肥料(ひりょう)を使わない田んぼもあった。そこで、肥料を買って栄養を与えようとした。

 

買った肥料を使うことで、使ったそのすぐあとは、効果がある。しかし、その効果をキープすることはできないため、さらに弱弱しい土地となっていってしまう。そこで金之助は、堆肥(たいひ=落ち葉やふんなどを使った肥料のこと)を使うようにし、堆肥を作ることができるようにお金を出した。ただ、積極的に堆肥を活用したが、効果があまり見られなかった。

 

そんななか、1908年、豊橋市に軍隊の一部(第15師団=現在の愛知大学や高師緑地のあたり)が設置された。軍隊であるので、馬小屋があり、馬糞(ばふん=うまのふん)を堆肥とともに使うことで効果が得られることから、馬糞を購入することにした。

 

新田から約4kmの距離があったが、馬糞を運んだ量に応じて給料を支払うことにしたこともあり、馬糞を用いた肥料がより多く使われるようになった。

 

1912年には馬1911頭、人1050人のフンや尿を買っていた。

 

 

 

 

 

ちなみに現在でも、塩分を減らそうとするならば水で洗い流すことをしているが、石灰(せっかい=グラウンドに線を引くときに使う白い粉もその一種)をまくことで塩分を減らす効果もあることがわかっている。(くわしくは→  )小学生でもできるはず。