生活の支援

神社・寺の設立

神野新田に来る人々は、いろいろな地方から引っ越してきている。そのため、あまり仲が良くなかった。

 

そんな人々が同じものを信じ、平和に暮らせるように心の支えになるようにと、神野金之助(かみのきんのすけ)は牟呂神富神明社(むろしんとみしんめいしゃ=神社)をつくった。磯辺校区にある二開神社(にかいじんじゃ)も同じようにつくった。

小学校の建設

神野金之助は、人々の豊かな生活のためには教育が必要だと考え、明治29年5月に神野尋常小学校(じんのじんじょうしょうがっこう)を開いた。学校を開くためのお金はすべて神野金之助(かみのきんのすけ)が支払った。

 

生活が苦しくても学校に通えるようにと、授業料を無料にしたり、勉強用具を与えたりしていた。

 

その後、村への費用の負担が大きいことから、6年後には閉校し、磯辺小学校と牟呂小学校(むろしょうがっこう)に分かれてれて通うことになった。学校は閉校になったものの金之助は、しばらくの間、教育のためのお金を村に寄付(きふ)していたという。