当時の人の話

〇石部太之助

 はじめは多くの者が自分の家から神野新田に通って農業をしており、落ち着いて農業に取り組む様子はなかった。そこで金之助は、子どもを学校にも生かさず、通い作を続けている者の田んぼを取り上げることとした。しかし半分以下の数しか残らなかった。残った者は神野新田で生きていく決心はしていたものの、なかなか収穫ができなかったこと、冬の厳しい暮らしに耐えられず、引き上げていくことも多くあった。

 

 先述の、尾張・美濃・伊勢で耕地を失った者たちが増えた。もともと農業をしていたこともあり、技術の高さと努力によって収穫も増え、次第に人も増えていった。

 

 移住してきた人が最も苦しんだのが、冬である。風が強くて寒く、砂ぼこりが顔にあたりって痛いという暮らしであったが、十分な食事も暖かく着る衣類もない。そのため、道路工事の仕事に雇われ、働いていた。ここでの稼ぎが冬の生活を支えるため、休むこともできないし、帰っても、藁(わら)で囲まれた小屋で寒さに耐えながら寝ていた。1週間から10日に1回、牟呂までお風呂に入りに行くことが唯一(ゆいいつ)の癒し(いやし)であったが、入浴料や寒い中2kmも歩かないといけなかった。さらに牟呂の人々からは「毛利のやつら」と呼ばれ、馬鹿にされている思いがした。子どもたちも牟呂の子どもから馬鹿にされていた。

 

 金之助はそんな生活を心配し、少しでも暖かく過ごせるようにと荒麦をくれた。このときは何にも代えがたいほどうれしかった。また、金之助は「今は大変な思いをしているが、やがて立派な家を建てる時がくる。それを楽しみに働いてくれ。私がこの新田を作ったのも、自分のためだけではない。君たちにその時が来るのを楽しみにしているのである。」と語っていた。

〇渡辺増次

 私は岐阜県海津郡の生まれで、12,3歳のころ神野新田へ移住した。その頃の家は藁で囲ったみすぼらしいものであり、扉も一つもなかった。そのため、少し風の強い日だと、家の中は砂だらけだった。冬には、食べ物に砂がかかることも当たり前で、ひどいときには寝ているときにかぶっていた布団が砂で真っ白になっていた。

 

 食べ物を確保しようと、野菜の種を蒔いても、いつの間にか風で飛ばされ、生えてこない。そのため、おかずとして味噌をたべたり箸に醤油をつけてなめたりしていた。

 

 田植えの時期もとても大変だった。もともと海だったところなので、貝殻ばかりである。水気のある所は耕すと柔らかくなるが、乾いたところはコンクリートのようにかたい。水気のある所も乾いてしまうともうどうしようもない。はじめのころは、田植えに1か月もかかっていた。さらに、かたいところには植えられないので、竹べらで穴をあけて稲をさしたこともあった。懸命に植えても、塩分があるため枯れてしまった。今では考えられない話である。

 

 当時は土地は広かったが耕作できるところは少なかった。その日の生活に困る貧乏人ばかりだったので、朝はやくから家の仕事をし、ほかの田んぼの仕事を手伝った。そして、帰ってきてから自分家の仕事をしていた。それほど一生懸命働いても、生活は少しも楽にならず、引っ越していくものも多かった。土手の上を通る人々に「あんなところに人間が住んでいるぞ」と馬鹿にされることもあった。

 

 どうにも困ったとき、神野家はお金を貸してくれたり、他よりも良い条件の仕事を与えてくれたりした。さらに、金之助は、いつも新田を見て回り励ましたり指導をしてくれた。かたい土地を耕すために、牛を3頭買ってきてくれた。また、牛小屋などを建てるときには補助金も出してくれた。

 

 はじめのころは納めるお米が足りないので、金之助に交渉をしに行った。金之助は新田の状況を知っていたため、お米を納められないことをすぐに了承してくれた。

〇藤城藤一

・食べ物は、今の学校給食のような立派なものではなく、大部分が麦で、お米は少しだけのご飯にしょうゆをかけて食べていた。

・薪(まき)や炭(すみ)が買えないので、藁(わら)でご飯やおかずを煮たり炊いたりした。松の葉を燃やしたり、枯れた葦(あし) 

 も燃やすなどして火を使うのにも苦労した。お正月前に石巻から薪を売りに来てくれたが、買えない年もあり、その年のお正月はとて 

 もさびしいものだった。

・小学生のころ、藁をたたき、縄を綯(な)って俵を編んだ。10枚で2銭(0.02円)だった。朝2時に起き、台車に乗せて牛久保

 (うしくぼ=豊川市の一部)まで売りに行った。買ってくれないときには、子どもでも泣けそうだった。時にはさらに1里(約3.9

 km)まで運んでくれれば買ってやると言われ、運んだこともあった。

・馬糞(ばふん=馬のうんち=肥料にするために使う)は、月に3回くらい、手車で父や母とともに、兵隊のいるところまでもらいに行

 った。競争だったし、とても大変な作業だった。