神野新田が出来る前

江戸時代

江戸時代、税は米で納められていた。江戸幕府や藩は収入が増えることを目的として、田んぼや畑を広げようとし、各地で新田開発が行われた。1800年前後から多くの開発がすすめられたようだ。新田開発がすすむよう、開発を行う人々に対して税をへらしたようである。1595年に150万町歩だった耕地面積は、1721年に290万町歩、1880年には447万町歩にもなった。

 

 

東三河でも新田開発が進められていた。江戸時代初期から開拓事業が盛んで江戸時代末期までに合計25の新田が作られた。さらに、1833年より、福島献吉により計画された「六条沖新田(ろくじょうおきしんでん)」構想は神野新田干拓に受け継がれている。 

人口の変化

上記表を見ると、明治維新(1868年)から人口がふえている様子がわかる。

「三重県下頌民暴動之事件」

地租改正反対一揆(ちそかいせいはんたいいっき)の様子を表した絵。百姓(ひゃくしょう=のうみん)が壁(かべ)をこわしているところが描かれている。

1873年に明治政府(めいじせいふ)による地租改正(ちそかいせい)が行われた。今までは、お米がとれた量に合わせて、お米を納めていた。お米の量が多ければ多めにお米を納めなければならないが、お米が少なければ、納める量も少なくなった。しかし、地租改正(ちそかいせい)後は、土地を持っている人は、たくさんお米がとれても、少ししかお米がとれなくても、同じお金を政府におさめることになった。これにより、政府は安定した収入を得ることができるようになった。

 

一方で、農民はお米があまりとれない年でも、苦しい生活の中から土地を持っている人にお米をわたさなければいけなくなってしまった。これにより、不満をもった農民によって、三重県では伊勢騒動(いせそうどう)が起き、愛知県や岐阜県にまで広がっていった。

地租条例の制定

 

明治17年(1884年)3月、政府(せいふ=国の政治を行うところ)は、新しく作った田んぼでは、税(ぜい)を減(へ)らしたり無くしたりすることに決めた。